今日は晴れだ、今年になると、谁かの悲しみを伝えるように、この小さな土地にはやけに多くの雨がダラダラと降り注いできた。いつも洗濯物が干し难いことに悩んでいたが。久々に晴れになると、空は昔のないほど澄んでいるが、暑い夏の日差しに晒されれば晒されるほど、凉しい雨がもたらしたすがすがしい気分もそろそろ懐かしくなってきた。ちょっと暑い今日で、相変わらずパソコンの前に座っている。今日のネット状况が何かおかしくて、何度もレイアウトされてしまった。その挙句、ペンを取り、久しぶりに日本语で何かを书こうと思い始めた。
何もかもすべて悪いかいいとか一言で済ませたら、世の中に生きていくのもそんなに辛そうではないのだろう。连日の雨に耐えず、ダラダラと振ってくる雨の音は何よりも騒音のように耳にしている、心は一刻も早く晴れの访れを望んでいるそのときの仆だったが。すがすがしい空気の中に呼吸すればするほど落ち着いていく、その一つ一つの水溜りが地面に届いた时にダッと発した音が蛙の鸣り声と共鸣しあい、夜空に解けてゆくという、たまには雨节の中だけあっての静寂の中にしか、乱れた気持ちも少しながらも静まっていかない。といったのも晴れの阳炎に耐えられないごろの仆だった。雨にて晴れが懐かしむ、晴れにしてはやけに雨を惜しむ。人はなんという矛盾なものなんだろう。时には晴れごろの仆と雨ごろの自分とを合わせたら何が起こるんだろうと思っていた。互いに大切とされるのを持っていて、互いに自分の持っているものに一目もあげない。皮肉なことに、そんなのは别人ではなく、异なる时におる同じ自分なんだ。
より良い生活を求めに外地へ行ったあげく、学生とともにしていた日々を惜しんでいる一人の先生。海外で二年间の生活のあげく、ふるさとのことをどうしても懐かしんでいて、帰ってきたら涙が出るほど海外へ戻ろうとする一人の先辈。そういう矛盾を拥いて暮らしている人々ではなかろうか。夏目漱石が言った「喜びの深きとき忧いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。」、世の中は住みにくそうであった。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば穷屈だ。」この草枕の冒头に书かれた名句の意味は今にして、少しも分かったような気がする。